一区切り
[リバイバル版初回投稿:2020年6月14日]

大学の2学期の試験が終わりました。
またひとつ小さな区切りを越えた、という感じで、「ふぅ……」ちょっと気が抜けています。
blog も一区切り。
新たなスタート……なんて言うと大げさだけど、
ここからまた何か書いていけたらいいなぁ、と思っています。
こちらは過去記事のリバイバル版です。リバイバル版は投稿の際、元の記事・コメント(ディスカッション)に■色または■色の文字(伏字*を含む)、■色の取り消し線 で修正等を加える場合があります。
日々の中で思ったこと、感じたこと、こころとからだのこと、のんびりと綴っています。
[リバイバル版初回投稿:2020年6月14日]
大学の2学期の試験が終わりました。
またひとつ小さな区切りを越えた、という感じで、「ふぅ……」ちょっと気が抜けています。
blog も一区切り。
新たなスタート……なんて言うと大げさだけど、
ここからまた何か書いていけたらいいなぁ、と思っています。
こちらは過去記事のリバイバル版です。リバイバル版は投稿の際、元の記事・コメント(ディスカッション)に■色または■色の文字(伏字*を含む)、■色の取り消し線 で修正等を加える場合があります。
ディスカッション
コメント一覧
この記事執筆は1年以上前のもの
それを承知の上でコメントするね
ブログとは
一見執筆者のリアルな姿を
見るようでも内容によっては
時間を超え閲覧者のリアルに
直接アクセスすることがある
そのとおりに執筆者自身にも
過去の自らの姿が
時を超え今の姿と統合することが
あって少しも不思議ではないよね
あるブロガーさんがブログ自体を
事情により更新停止をしながらも
それまで自分の書き綴った記事を
大切に思い管理したい、としても
それをどのようにどうしたら
いいのかは、あまり例がない
ことなんじやないかな
まさえちゃんがこうして
自分のブログ達を集めて
マルチサイトとして
再構築することは
何かしらの同じ気持ちが響く
ブロガーさんにいつかきっと
役立つことがあるよ~
Ryoji Suzuki
(このコメントは状況にアクセスしたよ)
りょうちゃん、コメントありがとう。
気づけば、ブログも8年目。
以前は何をやっても長続きしなかったわたしだから、
自分で自分に驚いてしまったり、不思議な感じもするよ。
でも、そのときそのときで一生懸命書いてきたし、
続ければ続けるほど大切なものになってきた気がしてる。
大したことは書いてきてないんだけど(笑)、
だからといって、どうでもいいことを書いてきたつもりはなくてね。
そして、わたしは子供の頃の記憶が薄くて、
子供の頃だけでなく30代はじめ頃までの記憶がけっこうあやふやで、
そういったことがあるからか、
こんな風に「自分をたどれる」ものというのがすごく貴重というか……
そんな気持ちも芽生えてきているんだ。
自分のこころのことの進み具合との関係なんだか、年齢的なものもあるんだか、
よく分からないんだけど、ここに来てなんとなく、
ブログを整理したりまとめていく、というようなことをしたくなったの。
ごちゃごちゃのまま置いておくとか、通り過ぎておしまい、とかじゃなくてね。
過去記事、過去ブログをあえて1つずつ再投稿しているのも、
たた記事を全部移せればいいんじゃなくて、
自分がどんな風に歩いてきたのかをちょっぴり丁寧に見てみたくなった、とか、
自分の“部屋”または“家”(=ブログ) の中にこれまでいろいろ置いた気がするけど、
実際には何があるのかを確認してみよう、とか、
なんかそんな感じ。
自分で言うのもなんだけど、
この7年ちょっとの間にわたしは変わったよなぁと思う。
そして、ブログにはそのときそのときのわたしのかけらが詰まっていて、
もがいている自分や変化していく自分を、全部ではないけどたどることができる……
別にそれを目的としてブログをやってきていたわけでもなんでもないけれど、
結果的にそういうものになっているんだなぁ、って。
直接の返信になってないし、だらだらと書いちゃったようで、なんかごめんね。
作業量が一気に増えて、若干自分が恨めしいけど(笑)、
なんだかんだでわたしはブログが好きなんだなぁとつくづく思う(; ̄ー ̄A
まさえちゃん
コメントの返信ありがとう
当ブログの
「ディスカッション」という仕組みと
その意味がとても大切であるんだな
と
頂戴した返信の内容を
読んで改めて感じた
それらの
細部については
割愛するけれど
ひとつだけ
以下に書き留める
コメントの返信の中で
>自分の“部屋”または“家”(=ブログ) の中に
これまでいろいろ置いた気がする
と述べてられることから
いわば
通常(=リアル体験)では
他者からの介入のほぼ不可能な
一人の人の“部屋”または“家”の
細部の様子、そのあり方さえも
執筆される方自身の“見方(=ブログ)”を介することで
公的な場での“共有可能な範囲拡張”の一面がここにある
とも考えられることができた
それって
世で言う何かこう“孤立化”とか
“責任というもののあり方”とか
一人の感覚では
辿り着きようもない
観念みたいなものにまでも
「ブログと言う媒体を通せば、人と人の間でのアクセスや共有が可能なんだ」
そんな風にボクは
自身のこととして感じたんだよね
ボクにとって新しく閃いたことの表現を
この場では試みさせていただいた、また
そんな勇気までもここでは頂戴した
表現が拙く、しかも難しい言い方と
なってしまっていることをごめんね
Ryoji Suzuki
うん、難しい言い方だね。
いつも通りと言えばいつも通りだけど(笑)。
ブログは“部屋”や“家”のようでもあるし、
“頭の中”や“心の中”のようでもあるなぁと思う。
それは記事の内容のことだけをそう思うわけではなくて、たとえば、
よく使われる表現、言い回し、
サイトのデザイン的なこと(ごく簡単なことでも)、
物事をどんな風な見方をする人なのか、
どんなことを大事にする人なのか、
何を書いていて、何を書いていないのか、
書いてあることからだけでなく「書いていないこと」から想像されるその人のこと、
全体としてどんな雰囲気が感じられるか、などなど、
どんなこともその人の一部分の表れというのかな、そんなことを以前からよく思う。
りょうちゃんの言う“公的な場”で、
どんな気持ちから、自分の何をどれくらい、どんな風に、表出していけるんだろうね。
もちろん「表出すべきだ」ということでもないのだし。
>「ブログと言う媒体を通せば、人と人の間でのアクセスや共有が可能なんだ」
これは、確かに可能性としてはあると思うけれど、それが実現するには
そうできる「相手がいる」ということが必要になってくるね。
「必要」というか、そうなったときには「相手がいる」状態だということ。
発信しても「一方通行」ということも普通によくあると思う。
そういったことを考えると、わたしにとっては
何か「可能性」や「希望」に開かれるような感じよりも、
むしろ、ブログをやっていくことの難しさや厳しさを感じてしまうんだよね。
わたしがそう思っているだけかもしれない。
ブログってなんか「闘い」だなぁと思う部分も、わたしはかなりあってね。
結局は自分次第なんだよね、と常々思っております ゛(6 ̄  ̄)
もちろん、やらなければ「人と人の間でのアクセスや共有」ができる可能性さえ生まれない。
やって、結果的にそれが実現することがあったら、それは本当に幸せなことだなと思った。
もらったコメントの内容を理解しきれないままに書いた返信、
偏っていたりズレていたらごめんね(「ごめんね」続きだねw)。